1735 年
ジャン=ジャック・ブランパンがヴィルレ村民名簿に時計職人として登録されます。彼は自らの名を冠したメゾンの創業者となり、その後およそ200年に渡り一族によって代々継承されることとなります。
1815 年
ジャン=ジャックの孫フレデリック=ルイ・ブランパンがヴィルレのアトリエを近代化させます。彼は時計の脱進機を新たに設計して超薄型構造を開発します。
1830 年
フレデリック=ルイの息子フレデリック=エミール・ブランパンが会社の名称を「時計製造所エミール・ブランパン(Fabrique d’horlogerie Emile Blancpain)」とし、ヴィルレ最大の時計のマニュファクチュールの建設に着手します。
1859 年
ルイ=エリゼ・ピゲがヴァレ・ド・ジュウ(ジュウ渓谷)に時計のアトリエを開設します。彼が改修を行ったル・ブラッシュの古い風車小屋には、現在ブランパンの複雑時計およびメティエダールのアトリエが入っています。彼は自らの名声によって、ジュネーブやスイス国内の一流メゾンに複雑機構を搭載したムーブメントを供給するようになります。
1932 年
ブランパン創業家7代目のフレデリック=エミール・ブランパンが亡くなり、長年彼を支えてきたベティ・フィスターに会社が託されます。彼女は一流の時計製造会社で初の女性CEOに就任します。
1950 年
ベティ・フィスターに甥のジャン=ジャック・フィスターが合流してブランパンを率います。その後彼らは、ベティが退職するまで20年に渡り共に力を合わせます。
1961 年
ブランパンは、オメガ、ティソ、レマニアを傘下とするSSIH(Société Suisse pour l’Industrie Horlogère)と合併します。ブランパンは自らの名を冠した時計の製造に加え、SSIHグループのムーブメント製造拠点となります。
1982 年
ルイ=エリゼ・ピゲが築いた家族経営の後継者となったジャック・ピゲがブランパンを買収し、フレデリック・ピゲムーブメントを製造する時計のメゾンとします。翌1983年、ブランパンはスピンオフし、ジャック・ピゲがジャン=クロード・ビバーをブランパン経営委員会の副会長として迎え入れます。フレデリック・ピゲとブランパンは、2010年の正式な統合まで経営を共にします。
1992 年
ジャック・ピゲが、後にスウォッチグループとなるSMH(<em>Société suisse de Microélectronique et d'Horlogerie</em>)にブランパンとフレデリック・ピゲを売却します。
2002 年
マーク A. ハイエックがブランパン社長兼CEOに就任。
2010 年
フレデリック・ピゲ社がブランパンに完全統合される。